浦山 瑠衣という人
幼少期
晴れの日にはロシア大陸が見える、日本最北の地で生まれました。両親共に音楽が大好きだったので、家中いつも音楽で溢れていました。そんな影響もあってか、2歳の頃には分厚い童謡二冊を丸々覚えて歌ってしまうほどの音楽好きに成長していました。そんな私をみて、4歳の時に母が地元の音楽教室に連れて行っていてくれたのが全ての始まりです。それ以来、30年以上ピアノと共に生きています。
ピアノを習い始めると、それまで幼稚園の先生が弾いてくれていたとなりのトトロの「散歩」や、「ミッキーマウスマーチ」を見様見真似で弾いていたのが、楽譜の読み方やリズムを教わったことで「そっか、こんなおたまじゃくしがこの音になるのか!」とどんどん弾きたい曲が読めるようになったのが嬉しかったのを覚えています。その後、セーラームーンのテーマが弾けるようになった時の感動は今でも覚えています。6歳になった頃、もっと真剣にピアノを習いたくて、父を残して母と兄弟と私は旭川に引っ越しました。この頃、両親は離れ離れで本当に大変だったと思います。父は毎週末、何時間もドライブし会いに来てくれていました。小さいながらに父の働く姿勢と、母が平日は一人で全部背負って私たちと向き合ってくれていた姿勢に感心していました。この時の選択がなかったら、その後数々の先生たちには出会えておらず、今に繋がっていなかったと思うので、両親の思い切った決断に本当に感謝しています。
幼稚園に行く前に妹と。
ピアノを始める
新しい土地、旭川では米澤緑夏先生に出会いました。私の一番最初の先生、川口富貴子先生からは、音楽に対する愛と音楽って楽しいんだよ!ということを学び、米澤先生からはその愛や楽しさを確実に表現できる基礎を全て学びました。ピアノに向かう態度や、練習の仕方、集中力の高め方、テクニックや音楽理論など、今の私のベースの全てとなる部分を教わりました。中学生になった頃には、北島公彦先生に出会います。ヨーロピアンな北島先生に出会えたのは私の中で本当に大きかった・・・!まだ中学生だった私にグローバルな視点で厳しくも愛のあるお言葉を沢山いただきました。レッスンや本番での演奏が終わるたびに先生から戴いた素敵なアドバイスをまとめたノートは、二冊分ぎっしり書かれており、今でも見返すほど私の宝物になっています。その当時は理解できなかったけど、大人になった今見て、初めて「先生が伝えったかったことはこういうことだったのか!」と感動することもよくあります。
ピアノ演奏以外にも、作曲の勉強も並行してしていました。林達也先生、梅谷正明先生、両氏ともにとてもユニークで学ぶことも多く、毎回レッスンに通うのが楽しみでした。まだ6歳だった私が作った曲らしきものを笑ったりせずに、同じメロディーを使って即興で展開される色彩豊かなシンフォニー(ピアノソロでしたがそう聞こえました)には開いた口が塞がらない衝撃を受けました。先生たちのおかげで作曲するのが楽しくて、6歳から今まで毎年曲を作り続け、本気で作曲家になろうと思った時期もありました。今のブルーミングの活動にこの二人の先生方の影響があるのは間違いありません。本当に、良い時期に、沢山の素晴らしい先生方と出会っていきます。
旭川に引っ越してすぐの発表会。このドレスお気に入りだった。
キャリアのスタート
もちろん、ピアノのレッスンや練習は大変以外の何者でもなかったです。小学校の低学年ですでに何時間も練習し、毎年数々のコンクールにも出て、文字通りに寝る間も惜しんで、自分の誕生日もお正月も1日たりとも欠かさずに練習に励みました。そんな努力の成果、沢山の地域で弾かせてもらえたり、ラジオに出演したり、新聞社からインタビューを受けたり、プロの方とアンサンブルする機会も頂いたり、小さい頃から色々な経験をさせていただきました。ただ、学校ではなかなか友達ができずに寂しい思いもして、心にぐさっとくることをされたり言われたりということもいくつかあったのですが、ピアノが救ってくれていたのは事実でした。「人生全てはうまく回らないんだね〜私にはピアノがあるからしょうがないのかな。」なんて小さいながらに思っていました。(笑)
沢山の舞台で弾けば弾くほど、ピアニストになりたい夢は大きくなっていきました。ちょうどその頃に、幸運にもオーストリアとドイツに行くチャンスに恵まれて、現地でベートーヴェンやモーツァルトはこの空気を吸っていたのか!とインスピレーションも受けて、さらに練習に熱が入りました。自分にはピアノがある!という自信もどんどんついていき、毎日が目まぐるしく飛ぶように過ぎていきました。
京都市立芸術大学音楽学部に入り新しく上野真先生に出会いました。とても芸術家肌の先生で「井の中の蛙」状態になりかけていた私を現実に引き戻して下さいました。その上野先生の下では落ち着いて音楽に向き合い、沢山のレパートリーを増やしました。大学在学中に、何度か先生のリサイタルを聞かせていただく機会がありました。もう全て、、、どの舞台も完成度が高く、私にとっては孤高の人に思えて先生のリサイタル後は特に身の引き締まる思いでピアノに座っていたのを覚えています。
これまでは先生方に支えられて舞台まで一緒に仕上げてもらっていたという感覚があったのですが、大学生になると毎回そうはいかず、自分で仕上げて舞台に持っていくという経験を何度もし、怖い思いも沢山しました。音楽家として、自立の一歩のような気がしました。大学では沢山の伴奏もし、数えたことはありませんが、悠に50人、200を超える曲を伴奏したと思います。
また、大学学部生の頃にイタリアの音楽祭へ行った時のこと。私の学生生活最後の恩師となる、マイケル・ルーイン先生に出会いました。先生の指導スタイルと人柄にすっかり魅了されて、学部を卒業したら、先生のいるアメリカ行こう!と決めました。欲しいものが見つかるまではしっかりと探しますが、ピンときたらすぐに買うタイプ。渡米もそのノリで「ピンときて」あっさり決めてしまいました。周りからは「なんでクラシック音楽なのにアメリカなの。ヨーロッパじゃない理由は何。」などなど散々言われましたが、今になっても、本当に良い決断だった!本当によかった!と思っています。
イタリアでのコンチェルトリハーサル風景
アメリカにくる直前、大阪でのコンサート。
ピアノを初めて2年くらい経った頃。
渡米
2011年に念願のアメリカ、ボストンに来ました。見るもの聞くもの全てが新鮮でワクワクすると同時に、言葉もままならないのに何だか自分の肌にあっていてほっとするところもあり、新しい環境にすんなり馴染みました。最近(2020年)、主人と一緒にカリフォルニア州へ越して来たのですが、ボストンにいた9年間の思い出は語り尽くせないほどあります。世界中から集まった沢山の友人に出会い、まずは価値観がガラリと変わりました。何も当たり前ではないということを身に染みて感じ、自分の生きて来た世界の小ささに愕然としました。渡米直後に挑戦したハートフォードでのショパンコンクールで2位をいただいたことにより、アメリカでの活動の幅が広がりました。アメリカ以外でもコンサートやコンクールで様々な国に行って積極的に研鑽を積んだものこの時期です。リトアニア、アルバニア、スペイン、ポルトガル、イギリス、ポーランド、オーストリア、マセドニア、、、多様な光景を目にしました。そしてこんなにも違う文化の人々がこの同じ時間軸に地球上に存在していることに感動していました。みんなこの頃からプロジェクト『ブルーミング』のコンセプトが生まれつつあります。みんな違うからこそ、いいんだな、と。
色んな思いを抱えて、少し新しい私となって長期一時帰国した2013年に、ピティナピアノコンペティション特級でグランプリを頂きました。その時に、「これが帰国するタイミングなのか。母国に帰って、アメリカで積んだ経験を広めていくことが私の役割なのか。私を待って下さっている方も沢山いる。家族もいる。」と随分と本帰国するべきか悩みました。ですが、アメリカという他文化の中で生活する中での学びは多く、まだまだ自分が知らない部分の自分をアメリカでは引き出せるのではないかという思いを拭えずに、アメリカにもうしばらく身を置くことを決意したのです。そしてもっとパワフルになって、将来は日本にポジティブの種、日本ではまだまだ少ない多様性というポジティブの種を撒いていけるくらいに成長したら、また帰国の可能性も出てくるかもしれません。アメリカ生活が長くなってくると、もちろんアメリカの嫌なところも山ほど見えて来ます。でも、どの国にいても長短あるのを知った上で、私にとって今日本は愛を感じに帰る場所、アメリカが私が愛を与えられる場所かなと思うのです。